浅草を行く2〜いろは会商店街

東京マイノリティ

浅草を行く2〜いろは会商店街

私が生まれた場所は今は日本堤という地名

その昔は悪名たかき「山谷」地区と呼ばれ、

通称「やま」とも呼ばれていた。

やまについてはボチボチ書きたい。

そのやまの中心地に「いろは会商店街」がある。

現在では見事なまでのシャッター商店街。

それでも1960年代は人で溢れていた。

いまでは信じられないが、パチンコ屋、映画館、レコード屋(電気屋)、

おもちゃや、ゲーセン、食堂は10数軒あり、

当時は珍しいマンションや食品スーパー(いまもありますシマダヤ)専門店も多々あり街になくてはならない場所でした。

子供の頃の同級生もこの商店街にはたくさんいる。

おぼろげながら記憶をたどると入り口にパチンコ屋さんは同級生Cちゃんの家、

在日Cのお母さんは羽振りが良く、優しい遊びに行くとおやつをいただいたものだ。

アル中製造工場野田屋(酒屋今はない)は立ち飲み酒場で連日昼間から数十人の酔っぱらいで溢れていた。

子供心にスゴい光景で近寄れない空気でした。

この店も同級生。

レコード屋が数件あり初めて買ったレコードはたしか「青い鳥」タイガースか「恋の季節」ピンキーとキラーズ。

電気屋が隣だった。高度経済成長とオリンピック景気で地方からの出稼ぎの労働者で活気だっていた。

この商店街では有線放送で常に歌謡曲が演歌にアイドル、GS,が流れていた、

時折それらにまじりなぜか洋楽、ベンチャーズやビートルズやポールアンカ、そしてエルビスが節操無く流れていた。

「帰って来た酔っぱらい」が大ヒットしたのもこのとき、毎日流れていた。「真夜中のギター」「フランシーヌの場合」「ブルーシャドウ」「花の首飾り」・・・・

知らずに音楽と共に生活していたのはここでの放送がきっかけだ。

そして未だに御世話になっています。

蕎麦屋「福久助」生まれて初めて食べた蕎麦屋が55年後も営業しています(代替わりしてますが)味は変わりません。

数年前あしたのジョーまつりなんて(危険な)まつりがありました、たしか2回で終了。

尾藤イサオさんがビールケースの上でテーマを歌い、

終了後サインを迫る酔っぱらい親父と商店会の役員の小競り合いが生放送で観れたという出来事も記憶に新しい。

と書きましたが決しておすすめは出来ません。

気合いと根性、度胸試しでトライする気持ちの方はどうぞ。

以下、いろは会の掟。

その1。写真はNG (スマホも)

その2。のんびり上を眺めて歩くな。注意深く前を向いてあるけ。人気を感じても決して振り向くな。

その3、蕎麦屋へ入る前に一度店内を見る、既に昼間から出来上がっているじじいと遭遇したら帰る。

その4、john lee hookerがときより路地から飛び出してきたらうまくかわしましょう。やばかったら商店街入り口のpolisboxへ避難しよう。

5。以外に美味しいパン屋さんや肉屋のコロッケあり、

食べあるきもゴミは持ち帰ること。

以上のことを気をつけて・・・・

やはりおすすめは出来ません。

昨年、アーケイドが数十年振りにはずされ日当りが良くなりました。

青空が見えるんです。シャッター通りのいろは会のあしたはどっちだ!!

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