1963年 浅草山谷生まれ

東京マイノリティ

1963年 浅草山谷生まれ


1963年4月東京オリンピックの前年、浅草で生まれました。

両親はもともと千葉県出身、東京に出稼ぎに来ていました。

父は板前志望で柳橋のTという料亭で働き、ほどなく母を呼び東京で暮らし始めた。

下町、日本堤で旅館を経営する親戚に呼ばれ、夫婦で旅館の別館を任された。

5つ上の兄は既に生まれていて小学校の頃、家族で下町に住むことになる。当時の浅草はかなりやばい街(まあ、今でも場所により)私たちはその中でも更にやばい山谷地区のどまんなかに暮らすことになる。

通称「やま」と呼ばれるその場所は、地方からの(主に東北や北関東中心)

出稼ぎ労働者で溢れかえっていた。

旅館とは観光客相手のそれとは大違い、いわゆるカンイ宿泊所です。

いつか都知事が話していました当時は一泊300〜400円で宿泊出来る。

今も1700円〜だからカプセルホテルより安いね。

この旅館は別名「ベットハウス」と呼ばれ「ドヤ」という通称となる。

場所に寄れば1部屋に2段ベット4人部屋、大浴場、共同トイレというまさに寄せ場の風景なのでした。

そんな街で私は生まれました。

宿泊客は過去も現在も様々な経歴の持ち主、出稼ぎ日雇い労働者、テキ屋、中心ですがたまに、おかま、元政治家、元大学教授、全学連、歌手、芸人。在日外国人、などなどバラエティーショーでした。

彼らは日銭が入れば飲んだくれ時に宿にも泊まれずに路上に寝込む、(今も寝込み注意の看板あり)

ホームレスじゃあないんです。労働者ですから。

泊まれず宿にあぶれて、通りや商店街のシャッター前に段ボールのベットで宿泊する人も多数いた。

これも高度経済成長期の東京の姿です。

私の部屋は屋根裏です。屋根裏に育ちました。

この屋根裏は、両親が安全対策のシェルターとして作りました。

小さな窓があり、はしごを昇り、部屋に入る。

(よくこのはしごから落ちました)なぜシェルターをつくらなきゃいけないかはぼちぼち書きます。

このベットハウスが僕の故郷なのです。

奇跡的にいまも存在しているから素敵。

ここでは数々のドラマが生まれました、

信じられない出来事がたくさんありました。

いまより少し不便ですこしやばい街のあぶない時代。

それでも義理と人情に溢れて、幸せと勢いがあったあの「昭和」を象徴する。東京の立派な裏側。

それが「ヤマ」であり、「どや」でした。

三輪車にのっかり果てしなくこの小さな世界を旅するのが少年時代の私の楽しみでした。

2019年いま私はこの浅草に舞い戻ってきた。

それはまるでなにかに呼ばれたかのように・・・・・・

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