
1985年夏、8月12日 22歳学生
卒業を来年に控え次々と会社訪問や内定の声をキャンパスでは聞こえていた。僕はといえば、相変わらずの夢を追いかけてバンド活動や仲間とラジオの真似事したり、音楽誌を作ったりしていた。

そんな中、横浜の先輩から新聞社で働かないか?という声をかけてもらった。仕事の内容は主に記者の雑用係と原稿整理、慣れてきたら原稿の最終校閲。
マスコミには興味はあったから、そのまま就職しちゃおうかな?なんて呑気に考えていた。時間は夕方四時ごろから夜の十時位まで、大学の講義に支障はない

半年ほど続けたら慣れて来てデスクからぼちぼち地方版を任される様になる、とは言え関東中心に千葉、茨城、神奈川、栃木、埼玉、しばらくはレギュラーのお休みの時の代打要因だ。
途端にベテラン記者の目が厳しくなって来たのもこの頃だ
そんなある日事件は起きた。

この年は数十年振りの阪神の快進撃で優勝か?と盛り上がっていた。この日僕は担当の群馬版の原稿の校閲を終えて最終のゲラが上がるまでの間、社内にある食堂で早い夕食を食べていた
そんな中、局内が異常に騒ぎ始めた。程なくデスクが血相を変えてやって来た
群馬版は残ってくれ、全部書き換えだ、どうやら大型旅客機が落ちたらしい

史上最悪の航空事故が起こったのだ。群馬県御巣鷹山山中に日本航空の旅客機が墜落、500人を超える犠牲者。
その日から三日間いや、一週間かな?僕は局へ泊まり込んだ。そこで見たもの、現場の写真、次々と書き換えられた記事、現地から帰って来た記者たち
地獄を見るとは、こういうことなのだろう、、、

この時、デスクがこんな話をしてくれた。
これからが本当の地獄なんだよ、多くの死人を跨ぎながら、遺族へインタビューする、まさに我々は鬼だよ、これが俺たちマスコミの仕事なんだよ

あれから40年、僕は鬼にはなれなかった。そう言う道は選ばなかった。でもラジオのD.Jには慣れた、音楽も続けている。学校寅さん巡業も続いている。
生きていればなんでもできる。
8月12日
あれから40年、あの丘に眠る人やこの事故を知っている人はいなくなるだろ。ここに書くことで、残ればいいな。
あの日も今日ほどではないけれど暑かったなあ、
黙祷
